宮本恒靖さんは、2002年日韓ワールドカップでフェイスガードをつけてプレーした選手として有名です。
ワールドカップ開催直前の練習試合で、鼻骨骨折したために、顔面を保護するためにフェイスガードを着用していました。
2018年7月、まだ41歳の若さでガンバ大阪の監督に就任しました。
宮本恒靖さんの選手時代と引退後についてご紹介したいと思います。
ガンバ大阪ではユース時代からキャプテン!同志社大学にも在籍
小学校からサッカーを始め、当初のポジションはフォワードでした。
高校時代はガンバ大阪ユースに所属していました。
ちょうどJリーグ発足の年で、上級生がいなかった為、初代キャプテンに就任し3年間務めました。
その間、U-17日本代表にも選ばれた経歴を持っています。
1995年ガンバ大阪のトップチームに昇格するが、しばらくはポジションも定まらず、苦労しました。
トップチーム昇格後、同志社大学経済学部に進学したことも当時は有名でした。
1997年頃から安定的に試合に出場し、2000年キャプテンに就任しました。
2002年には西野朗さんが監督に就任し、3バックが採用され、不動のセンターバックとして活躍しました。
2005年にクラブ史上初のJリーグ優勝を成し遂げました。
日本代表でもキャプテンに就任!日韓ワールドカップではバットマンに?
2000年ガンバ大阪でキャプテンになった年に、日本代表に初選出されました。
2001年には日本代表でもキャプテンに就任し、2002年日韓ワールドカップに出場しました。
フィリップ・トルシエ監督が採用する3バックの中央で、ディフェンスラインをコントロールしていました。
冒頭で記載した通り、直前の練習試合で鼻骨を骨折し、フェイスガードを着用してプレーする姿から海外メディアでバットマンと呼ばれていたようです。
2002年日韓ワールドカップは日本代表が2回目のワールドカップ出場で、初めてグループリーグを突破した大会でもあります。
トルシエさんの後、ジーコJAPANが発足、そこでもキャプテンを務めました。
2004年のアジアカップ準々決勝ヨルダン戦で、PK戦に突入、PK戦で足を滑らせて失敗が続くと、主審にPKの位置変更を申し入れました。
その試合で見事勝利し、最終的には優勝しました。
宮本恒弘さんは自ら主審と交渉し、その語学力が存分に発揮されました。
国際大会では非常に重要なことだと認識されます。
その後、2006年ドイツワールドカップにも出場し、同年オーストリアのレッドブル・ザルツブルクに移籍しました。
2018年現在、南野拓実選手がプレーしているチームです。
ザルツブルクで活躍後、ヴィッセル神戸に移籍し、選手としては引退しました。
FIFAマスターを取得!古巣ガンバ大阪の監督に就任
現役を引退後、FIFAマスターに入学しました。
FIFAマスターとはスポーツに関する組織論、歴史、哲学、法律についての国際修士のことです。
入学には一定の英語力が求められ、書類選考、電話面接により合否が判定されます。
2013年に見事FIFAマスターを取得しました。
その後、ブラジルワールドカップのテクニカルスタディグループの一員となり、ガンバ大阪のアカデミーコーチングスタッフ、ユース監督を経て、2017年ガンバ大阪U-23の監督に就任しました。
そして、2018年成績不振により解任されたレヴィー・クルピさんの後任としてガンバ大阪の監督に就任しました。
まとめ
宮本恒靖監督はチームが低迷する中、ガンバ大阪の監督を託されました。
トップチームの監督は初めてですが、様々な年代のチームと日本代表でキャプテンを務めており、チームをまとめる力は持ち合わせていると思います。
是非強いガンバ大阪再建に向けて、チームを立て直して欲しいと思います。